八王子ゾンビーズの感想と備忘録~演劇とは何か~

以降ここに書くのはあくまで私の備忘録にすぎない。八王子ゾンビーズがすごく楽しかった人もいるので、私はそれは全く否定しない。各々の感想を持てば良い。その上で、今回の舞台はなんとも演劇の本質を見直すことができた反面舞台として非常に良かったのでその辺を書き記していきたいのだ。

以下、ネタバレは当然の事、好きな人にはきつい言葉があるのであまり閲覧はオススメしない。あと備忘録なので、書きたいことを書いてるに過ぎない。その辺を頭に。

 

そしてクソ長いので注意。

 

最初にまぁ良かったなっていうゾンビーズ

羽吹の最後のゾンビーズポーズを余韻を残すことなくカットアウトしたのは天才。あそこから、彼があのポーズを気に入って今後も使うのか、それともやっぱ恥ずかし!って言って笑うのか、そのへんの想像の余地を残した美しい終わりだったのは良かった。

あとこの後ボロボロ言うけど、平均的には楽しかったよ。ダンスの時間短かったけどやっぱり上手いし。あと推しの顔が良かった。

 

さて、そしてここからが長い。ここが気になったよ八王子ゾンビーズ
1 ・人間関係の浅さ

とかく今回の舞台は人間関係の浅さが露呈する。楓と母の関係。
羽吹と先輩住職の終盤に見せる謎の信頼位関係。楓とゾンビーズの関係性。一刃の存在。全てが雑。雑なのだ。まぁ、一つ一つ紐解こう。

【楓と母の関係】

ある種今回の主要題材になりながらすごい首をかしげた。ふたりの関係から、ヤク漬けにつながる感じがしない。ヤク漬けになったにしては、楓には母に対する感情が良すぎるし、思い出もしっかりある。すくなくとも小学6年生の時の旅行先までしっかり覚えているのだ。親子の関係性が破綻していたように感じない。これが、どうして押し付けからのヤク漬けにまで発展したのだろう。親子関係が比較的良好なのに、相談もできなかったのだろうか。この辺が、話の流れで便利な方に親子の関係性が解釈されているように感じるのだ。浅い。浅すぎる。キャラメルの作品を十本は見てから親子関係に関する話を書いてきてほしい。

【先輩住職の後半の活躍】

先輩住職が終盤に捕まっている羽吹を助け出してくれたが、何故だ。この先輩と羽吹の信頼関係はどこから発生したのだ。もしかしたら、先輩の正義心からの行動かもしれないが、でも最初の方なんて夢を馬鹿にする的な発言をしていたキャラだ。どうしてこの人が危険を冒して、住職を裏切ってまで助けてくれたのか分からない。単に人員の都合上としか思えない。

【楓とゾンビーズの関係】

めちゃめちゃ重要なくせして、その実かなり雑だった部分だと解してる。楓ってそんなにゾンビーズにとって特別な存在だった…?というのも、結局楓がモデルの仕事で行き詰まった時に全く相談もしてなくて、ヤク漬けでフラフラしてたところを発見されて。う~ん…。何故相談しなかった。その辺が男というのはそういうものと言われればそれまでなのだが、ヤク漬けからのヤク漬け死に至るまで相談しないものなの?助けを求めないの?それって信頼関係的にどうなの?と疑問が尽きない。楓自身がゾンビーズに対してしてあげた事もそんなにないじゃない?見えなかったじゃない?楓にとってのゾンビーズゾンビーズにとっての楓が見えない。これが後に説明する部分で更に話をややこしくする。詳しくは次の話で。
【一刃の存在】

だれやお前。となった人は少なくないだろう。まぁ、この辺は一刃さんは希望アンチ絶望マンセーなお人なんだなと解釈した。それでも、もう少し人間的な掘り下げがあっても良かったと思うよ。根からの狂人なのか後天的なものなのか位は知りたかったな。

2・1から発生する主張の浅さ

人間関係からの希薄さは今回の『八王子ゾンビーズ』が二時間と1万円かけて観客に訴えたかったことを浅くする。今回私が最も反面的に感じるのはこの部分だ。役が下手くそだろうが、歌やダンスが見るに耐えない舞台でも、この芯の部分がブレない舞台はどうあれ評価できるのだ。逆に言えばそこがブレると『何故、この話を舞台で表現した』と疑問符を浮かべる。ゾンビーズは圧倒的後者だ。順に説明をしていきたい。


【一刃と羽吹の戦いで楓が乱入する意義】

一刃と羽吹の戦いは一体何を意味してたのだ?そりゃ、楓のそれ使えば勝てるわ!反則やん!!とならないために、あの手助けに意味を見出さないといけないのだが、それが、ない。仮にあの戦いを

一刃→絶望

羽吹→希望

と置き換え、希望が圧倒的な絶望の強さに負けそうになっているが、何かの力で希望は絶望に打ち勝てるのだと表現していたとする。

その際の楓の役割は仲間・友情だと思うのです。だが浅い。楓が「仲間・友情」を代表しているキャラクターなのか?前述したゾンビーズとの曖昧な関係。羽吹とは喋ることもできない。なら、いったい楓は何を表現して、どうして希望は絶望に勝てたのだろうか?この曖昧さが更に終盤加速する。舞台の主張は更にこんがらがる。
ゾンビーズが成仏する際に「生きてれば良い事もある」と言っていたが、これは生きる事、すなわち人間賛歌的な主張なのか?それとも、悪いことはしたが許されたゾンビーズと肉親を殺され最後まで悪を許せなかった住職との対比による、悪は許されるべきなのかを常に問い続ける事が人間なのであるという主張なのか。死しても心は繋がっているという仲間・親子の関係性の素晴らしさなのか?
一本筋が見えない。

この作品が訴えたかったことが分からない。


ここからはかなり主観になるが、あれは演劇なのかと問いたくなる?
-演劇を人が求める理由
それは虚構のはずなのに、その芯の訴えは間違いなく我々の生きる現実に即しているアンチテーゼが存在する。
どんな馬鹿げた設定でも、最後に突き詰められるのは私たちの生きている世界で訴えられる、訴えたい主張と変わりなくなる。
私たちはこの世に転がる疑問をいちいち噛み砕けはしない。そのまま放っておく。だが、演劇はそれを許さない。時にこの世に転がる疑問を、「お前もその疑問の中に組み込まれてる」と喉元に突きつけてくる怖さがあり、突きつけられた瞬間私たちはカタルシスを得るのだ。また演劇の怖さは、その疑問が最初は分からない事が多い。真に喉元に突きつけられる瞬間とクライマックスは一致する。分からないからこそ、突然突きつけられる恐ろしさ、又は足元からじわじわ這い上がる恐ろしさに快感を得るのだ。舞台から・現実から目をそらすなと、虚構が現実に対して牙を剥くのだ。


私はその代表として『口紅』(http://no-4.biz/kuchibeni/9)をあげたい。これは2016年に上演された舞台だ。詳しい内容はサイトや他の感想サイトを巡って欲しいが、ともかくこの作品は虚構なはずでありながら、どこまでもリアルな描写で私を鬱の境地へ叩きつけた。あんなに暗い舞台二度と見たくないのだが、それでもラストシーンを決して忘れることはできない。

「お前も殺しただろ?」という言葉がラストで使われる。これは水泳教室で息子を亡くした親にその同級生かつ水泳教室のインストラクターの主人公が最後に向けるセリフだ。その親は高校時代にイジメをしてとある子を結果的に自殺へ追い込んだのだ。ラストで被害者だったその親は一転して加害者としての側面を持つ。この恐怖がわかるだろうか。これは私達にも突きつけられた牙なのだと戦慄した。被害者だけの人間はいない。私達は被害者と加害者の両面を持っている。しかも無意識だ。その恐怖を今でも忘れられない。


ゾンビーズはそれが無かった。牙を向けられる事が無かった。途中で、悪は許されるべきかという牙をちらつかされ、このまま行くのかと思ったが、どうやら主眼はそこではない。
仲間の良さなのか、母親の後悔なのか…生きる事の大切さなのか…
途中から我々に見せられる牙はあれど、それが喉元に突きつけられる事なく終わってしまう。あまりに呆気ない。
例えば、私達も悪を許さぬのか許すべきなのかを究極的悩ませてくれれば、それは1つの筋になっただろう。結局八王子ゾンビーズとしては悪を許した。悪がその他の善を蹂躙したが、許したのだ。だが、それは何故だ?悪とは何か、正義とは何か?その究極の境地に至ることなく終わってしまった。

 

演劇・ミュージカル・ショーその他諸々。板の上で繰り広げられる世界はあまりに多い。その上で、演劇は面白さの中に、常に牙を携えていて欲しい。そうでなければ、何故この時代にこの役者が(生きている人間が)魂を込めて、熱を込めて観客に訴える必要があるのか分からなくなる。テレビでも小説でもダメなのだ。「舞台」でやる意味と意義はそこにあると私は思う。

なので今回の舞台はテレビに近いものを感じた。山場山場を各ポイントで作る感じ。(無論テレビに素晴らしい話が多数あることは百も承知である。単に構成的な面を指している)

舞台で、二時間で、一万円かけて、やる内容がこれか~~~><

う~ん!推しがいなければディズニー行くわ!『楽しい』『面白い』だけなら、意味がないのだ。演劇は常に現実に挑戦しないなら、その他の楽しいことに金を使ったほうが良いだろう。演劇は日々を無為に生きてる私たちの身の回りにある危険を恐怖をそしてそこから感じる人生の喜びを提示するから、ディズニーより金が高くても私は足を運ぶのだ。

3・時代錯誤の笑い

これは別のブログ書いてる人が書いてるので省略だが、平成の最後にどんだけ時代の空気読めてないんだとびっくらぽんですわ。


4・劇場設計ミス
誰もが言ってるタンバリン。舞台中も永遠にシャンシャンしてるタンバリン。舞台に集中できね~~~~!!!!あと1つ千円なのぼり過ぎだし、割に使用頻度少ないってか盛り上がらないから持つ意味^p^

応援もさ、応援してるの?わかんね~~~!!!観客慣れてないし、声出していいよって言われても、結局はコール&レスポンスの形にならないと出せない。それ以外はセリフ言ってるから被るし声出せない。それにコルレの場合、応援したいキャスとにあたらないと意味なくね?私はラッキー千石なので推しに当たったから良かったよ。
あと、9日目で客降り入れたのゆるさねぇ。こういうさ、最初に見てた人が損をするのはね、許されるとき、許されないときがある。

 

許される:プレ公演→本公演等のように、明らかに何か変わるタイミングが明示されている。

東京公演→大阪公演のように、変わるか分からないが変わる可能性なきにしもあらずが観客も分かる。

日替わりは変わるの前提なので特に問題なし。

許されない:同場所、同公演において観客が予想できないタイミングで演出の変更をする。

おまえ、許されないからな!!!許さないからな!!!!こういうのは客と舞台の信頼関係に関わってくるんだよ!もうこのスタッフ関係者の公演見れないよ!怖いもん!前の方より後の方がいいのね?ってなるでしょ?舞台なんだから演技の成長があるのは当たり前だけど、同じ一万円で客席降りの有無が日によって変わるのはないわ…。予想できるタイミングなら許すよ。でも、そうじゃない。

もしかして、これこそが八王子ゾンビーズの伝えたかったこと…?いつ、どんなタイミングで変化があるか分からない。常に人生は予想できないことで溢れているのだと!

 

ならそれを板の上で表せ~~~~~~!!!!

 

と防備録でした。